気まぐれ日記 04年4月

04年3月はここ

4月1日(木)「桜の季節と胃痛とストレスの関係・・・の風さん」
 当地の桜がようやく見ごろになってきた。ここ数日、土砂降りだったり烈風が吹きすさんだり、桜にとっては試練の日々だったが、咲く前に蕾で散ってしまうこともなく、けなげに咲いている。
 毎年のことだが、桜の季節は悲しい。社会人になり、小説家の夢を追いながら、その夢がかなえられない年月の経過を、桜が開花でもって数えてくれるからだ。
 そのせいか、今日は、桜を見た朝から、胃のあたりがしくしくと痛い。体力は人並み以下だが、不思議と内蔵だけは丈夫らしく、腹部の痛みや消化器の不調はめったに感じることがない。だから、たまに胃の痛みを感じると、もしかして病気ではないかと不安になる。
 午後もときどき痛んだ。
 それで、大事をとって、8時前に帰宅したら、症状が消えた。
 知恵熱ならぬ、神経性胃炎だったのかもしれぬ。病気ではない。ひょっとしてストレス? 私を知る者は誰も信じないであろう。私も信じない。
 書斎でパソコンへ向かっていたら、また眠くなってきた。「くそ」とばかりにソリティアで遊びながら眠気を追い払った。そう。余の辞書に「ストレス」の4文字はない。

4月2日(金)「パソコンと遊んでいる風さんの巻」
 午前と午後、それぞれ長い会議があって、あっと気付いた時は、もう夕方だった。これでは、自分で抱えている仕事が進むはずがない。そう思うと、とたんに仕事の意欲が減退する風さんである。いや、仕事じゃない。会社でしていることは趣味だった。楽しまねば。
 一昨日、同僚がパソコンのメモリをグレードアップした。デスクトップのである。128MBのメモリが余ったので、譲り受けていた。それを自分のデスクトップへ装填することにした。コントロールパネルのシステムでチェックすると、現在のメモリは128MBなので、うまく行けば256MBになる。
 メモリの装填など恐れることはない。自宅のパソコンで経験済みである。ドライバーで本体の箱を開いて、中を覗くとすぐにメモリの装填場所が見つかった。CPUの下あたりだった。CPUが邪魔なので、これもドライバーで外して、メモリを装填した。同僚が互換性があることを確認してくれていたので、迷うことなくちゃちゃっと完了。
 再組立し、電源を入れてシステムを確認すると、256MBになっていた。成功。
 パワーポイントのファイルをダブルクリックしてみたら、すばやく開くことができた。顕著な効果が見られた。
 ・・・帰宅して、夕食後、書斎でメールチェックしたら、ウィルス・メールが二つ、ノートンにひっかかった。私は自分の3台のパソコンのノートンを、それぞれきちんと、有料でグレードアップしている。ウィルスなどめったに送られてこないが、たまにひっかけてくれるとうれしい。お金はムダではないようだ。
 いくつかメールを送ったりして、またメールチェックしたら、またまたウィルスメールが二つ、ノートンにひっかかった。即検疫してもらい、直後に削除したので、どんなウィルスかは知らない。

4月3日(土)「健忘症?・・・の風さん」
 サンルームから庭を眺めると、辛夷(こぶし)が見事に咲いている。白い大ぶりの花だ。山本周五郎の素晴らしい短編「夜の辛夷」を読んだ時の感動がよみがえる。
 書斎でメールチェックしている間に、今日もウィルスメールが3通も舞い込んだ。W32Nimdaの亜種だった。どこから舞い込んできたかも判明した。東北大学の知り合いの研究室からだった。恐らくその研究室の関係者へ無差別に送りつけられているだろうから、わざわざ私が通知する必要はない。来週、出社して会社のパソコンをチェックしてみれば、メーリングリストから事件の顛末は分かるはず。
 京都大学附属図書館の館報「静脩」向けの原稿を作成した。「数学文化」向けの原稿と内容がかぶるので、あちらは歴史読物風、こちらはやや作家の視点を増やして随筆風にすることにした。ほぼ完成した。締め切りまでまだ1週間あるので、中間原稿を送って、ざっと見てもらい、最後にリファインした原稿を送ることにする。
 今年度、住居区の自治会の役員に選ばれた話は、先月書いた。その役員会が夜あって出席してきた。年間行事が当初の見込みより増えていた。多忙な時ほど充実した人生が送れるのは、客観的に間違いないのだが、私の場合、ボケていると言おうか、要領が良すぎると言おうか、どんどんこなしてしまうので、脳の記憶部にしっかりしたデータが残らないことが多い。つまり、みーんな忘れてしまう。つらかった思い出や後悔が後に残らないのは都合がいいが、ついでに楽しい思い出や共に苦労した人々のことを忘れてしまう。記憶の基本のひとつは、いかに繰り返すか、つまり振り返りを多くすることだから、常に前ばかり見ている私は、過去からどんどん遠くなる。

4月4日(日)「身辺の片付けが第3コーナーへ・・・の風さん」
 相変わらずウィルス・メールが届く。試しにワイフのパソコンのメーラーを立ち上げてみたら、13通も受信した。すべてウィルス・メールで、ノートンがブロックした。ワイフはめったにパソコンでメールチェックしないので、今まで気が付かなかったらしい。ここ2週間ほどの被害である。
 その勢いで、昨年末以来の、ワイフの作りかけのホームページを試しにアップロードしてみた。不思議とすんなり出来た。ところが、インターネットエクスプローラーで開いてみると、アクセス「禁止」と出た。あれ〜? 変だ。すぐに書斎の執筆マシンでアクセスを試みてみると、同様にアクセス「禁止」と出る。頭にきたので、アップロードしたファイルをすべて削除しておいた。後日、冷静なときに対処方法を考えよう。
 今日は朝から雨だ。夕方には止むかと思っていたが、やや小降りになった程度で、冷え冷えとした雨が降っている。部屋の片付けがまだ残っているので、今日は、いよいよ第3コーナーを回るべく、スチール・ラックを購入してきた。早速組み立てて、書斎に散乱している資料類を収納していったら、あっという間に一杯になってしまった。まだ廊下に書籍がたんと積まれているのにぃ〜。
 そんなこんなで、今日もトレーニングに行けず。食事制限をしているので太る心配はないが、体力は落ちる一方だ。

4月5日(月)「夢の話・・・の風さん」
 ミッシェルで往復70kmを超える出張をしてきた。快晴の中のドライブで気持ちよかった。
 あちらこちらの桜が満開だった。ところどころ散り始めている木々もあった。
 例年この時期は、過ぎ去りし風雪の年数を数えることになるので、やや気が沈む。私も50歳。人生の折り返し点はとうに過ぎた。だから、若い人の夢のある話を聞くのはとても好きだ。
 先日、ミッシェルで走りながら、ラジオで聞いた話。アメリカンフットボールのサンフランシスコに拠点を持つ49ers:フォーティナイナーズ(アメリカの1849年というとゴールドラッシュに沸いた年だ。ジョン万次郎もサンフランシスコの金鉱に入り、日本に帰る資金を得た。49ersというのは、その頃の一攫千金を目指した人々を指す言葉)の日本人最初のチアーガールだという、安田愛さんという方が出演されていた。子供のころからモダンバレイをしていて、高校からチアーガールを始め、いったんは社会人になったものの、志願して本場のチアーガール試験を受け、合格して今日にいたる、というものだった。頂点を極めるというのもすごいことだが、私が一番感心したのは、彼女が話す日本語の美しさだった。アメリカでは当然英語で活動し生活しているのだが、日本語を大事にしているようで、とても爽やかな印象だった。いまどきのギャルたちに聞かせたかった。この人は外見も美しいのだろうが、内面もきっと美しい方に相違ない。
 帰宅したら、ととり礼治さんから新刊が届いていた。『夢、はじけても』(新人物往来社 1900円税別)。歴史文学賞佳作から苦節5年。タイトルとは違い、夢ははじけなかったのだ。

4月6日(火)「花粉に過敏、ケータイの振動に鈍感・・・の風さん」
 テレビで「SASUKE」をやっている時に帰宅した。つまり今日も帰りが遅かった。
 昨夜から今朝にかけて花粉を感じたので、薬を飲んで出勤した。社内でも花粉の飛散が多かった。感じるのである。何と言うかそのー、顔が粉にまみれているような感覚があるのだ。皮膚が粉のせいでさらさらしている。ベビーパウダーをまぶしたような、事実、そういう感覚がある。それだけ過敏なので、花粉症になるのだ。
 しかし、薬を飲んで出かけたお陰で、何とか終日、快適とまではいかなくとも、平常の生活ができた。ただ、内容も平常そのもので、会議漬けの一日だった。
 午前中の会議が、昼休みになったお陰で、時間切れで終了し、そのまま食堂へ。昼食を摂りながら、まだ仕事の話をしていた。その頃、自席から胸のケータイに電話が入っていたのだが、振動モードではほとんど気が付かない。花粉には過敏なほど敏感なのだが、ケータイの振動には鈍感だ。それは何を知らせる電話だったかと言うと、昼休みに弁当付きの会議が開催されていますよ、というお知らせだった。朝から知っていたのだが、このときはすっかり忘れていた。シームレスの仕事ぶりだから、とんと気が付かない。
 食べ終わって、食堂の外に出てきたら、職場の女性がわざわざ教えるために走ってきてくれた。
 急いで、会議室へ向かったが、今さら弁当など食べられない。
 この弁当代は給料から天引きされるという、見事なしくみである。落ち込んだ。

4月7日(水)「春爛漫でぼけぼけ・・・の風さん」
 リトル松井がどでかいことをやりましたなあ。すごーい。こりゃ、どんどん日本選手がアメリカへ渡るぞ、きっと。
 若いうちに思い切って挑戦してみることだね、やはり。
 私は、若くないけど、挑戦する意欲だけは衰えない。でも、か、体が・・・じゃなかった、の、脳ミソが・・・死にかけている・・・らしい。
 先週、会社の同期の友人が私の職場を訪れて、帽子を落として帰って行った。昨年の忘年会で、間違えて私のコートを着て帰った友人だ。「お互い、年はとりたくないものだ」とメールしたら、「最近、あちこちに物を落としている。テニスコートにタオル、駐車場にジャケット・・・」だとさ。あいつも、もう長いことはなさそうだ。
 今朝、電気カミソリを使った後、試しに自動洗浄のスイッチを入れてみた。昨年購入した、自動洗浄機能付きのスグレモノだったが、全く使用していなかった。極端な私は無頓着なときは徹底して無頓着である。
 そうして、気まぐれにスイッチを入れてみたのだが、動作しない。(さては壊れたか?)と思ったが、よく見ると、洗浄液切れで交換を促す赤ランプが点灯していた。洗浄液はアルコール系なので、自然に蒸発して消えていくのだ。し、しかし、購入して一度も使わないうちに、洗浄液が切れてしまった。ぼけぼけ。

4月8日(木)「ボケは続くよどこまでも・・・の風さん」
 今日は岡山へ出張なので、会社帰りに名古屋までの私鉄特急の指定券も買い、昨夜のうちにスーツを出して、ワイシャツとネクタイもそろえて、目覚ましをちゃんとセットして、いつもより1時間も早く就寝した。・・・しかし、一つだけ忘れていたことがあった。ワイフに出発時刻を告げることだった。
 体内時計が安全側に働いて、目覚ましセット時刻より20分早く目が覚めた。(もう少し寝られるな)そう思ったのが甘かった。次に目が覚めた時、既に目覚ましセット時刻を大幅に過ぎていた。自宅出発時刻まで10分しかなかったのだ! 絶対絶命かと思った。が、とにかく、顔は洗ったがヒゲは剃らず、スーツは着たがネクタイは締めず、血圧の薬は持ったが食事は摂らず、ワイフの車で駅まで送ってもらった。
 間に合った。
 なぜワイフに出発時刻を告げる必要があったかというと、昨夜のうちにそうしていれば、寝坊をしていても、頃合いを見計らって起こしに来てくれたはずだからである。
 でも、とにかく間に合ったのである。

 特急電車の中でネクタイを締め、名古屋駅でカバンに入れてきた電気カミソリでヒゲを剃り(トイレにもようやく入り)、新幹線の中でコンビニで買ったパンを食べて薬を飲んだ。
 涼しい顔をして岡山駅で同僚5人と合流し、メーカーさんの迎えを受けた。
 今朝のバタバタの中で花粉症が疼き出していたが、仕事をしているうちにそれも消えていた。
 しっかりキビ団子を土産に買って予定より早く帰宅した。
 万事終わり良ければすべて良し、である。
 なーんだ、それなら、ワイフに出発時刻を告げなかったことも、どうってことなかったことになる。
 ところがどっこい、そうは問屋が卸さないのである。
「あら、食べてこなかったの? あなたの分の晩御飯、ないわよ」
 朝食同様、またコンビニへ向かうハメになった。出発時刻だけでなく、帰宅時刻も伝えるのを忘れていた。

4月9日(金)「週末の風景・・・の風さん」
 今ごろになって花粉症気味である。どうやら私はスギよりもヒノキに反応しているようだ(東海地方はスギよりもヒノキの方がピークは遅い)。ぜいたくなのかもしれない(なんのこっちゃ)。薬を飲んで1日をスタートしたので、何とか無事である。
 あいかわらず仕事が多忙で、今日は、個人で発表シナリオをしこしこと作っていた。表面上はビラ作りだが、私に言わせれば、これは目標達成のための戦略なのである。じっとしていても何も思考は進まないが、何か作業をしていれば緻密な作戦は次第に形をなしてくる。文章を書くことも同じで、深層心理の底に沈殿している様々の想いが、分析的・論理的作業をともないながら(もちろん長年の経験とテクニックに裏打ちされた基礎も必要だが)、第3者を説得できる作品に昇華されていくのだ。
 週末なのに退社時間が遅くなった。会社のパソコンの、ついに800を超えた未読メールに後ろ髪を引かれながらも、思い切って席を立った。
 もう8時を回っているのに、いつもの通勤路で「ネズミ捕り」をやっていた。ここは、よく夜間に実施している要注意ポイントである。しかも、今夜の場合、レーダーを常時「ON」にしないという卑怯なやり方(?)だったので、探知機がけたたましく警報を鳴らすことがない。私のようにしたたかなドライバーでなければ、あっさり捕まってしまうだろう。現に、ミッシェルのだいぶ前を走っていた車が、停止の合図で側道へ引き込まれた。
 危険区域を無事通り過ぎた私は、しばらく走ってから、道路わきにミッシェルを止めた。今夜、知人の通夜で出かけているワイフのケータイに電話するためである(道路交通法の改正で、運転中のケータイ使用は厳罰に処せられる)。ワイフも恐らくこの道を通って帰ってくると想像されるので、注意を促すためだった。・・・しかし、電話は出なかった。
 ワイフは通夜の後、駐車場で友人らと故人をしのんで2時間も立ち話していたそうである(ケータイは車の中でむなしいバイブレーションをしていた)。
 かなり遅く帰宅したワイフは、夕食も摂っていなかったので、近くの居酒屋へ連れて行った。二人で行くのは初めてである。ワイフは生ビールの中ジョッキを飲みながら、色々なつまみを食べ、最後に石焼ビビンバで腹ごしらえを終えた。アッシー君の私は、ノンアルコールビール(美味くなかった〜)を飲みながら、つまみのおこぼれにあずかった(晩御飯は、帰宅してから、長女の温めてくれた、大盛りカレーライスですませていた)。
 再度帰宅してから、辻真先先生から頂戴した『北辰挽歌』(学研M文庫)の残りを読み終わった。土方歳三の小説である。宮古湾海戦付近が中心の物語で、恐らく架空の人物と思うが、千景・仙之助という双子の姉弟の活躍が面白かった。
 やはり週末だ。もうフラフラである。

4月10日(土)「春うらら、変てこな風さんの巻」
 ワイフにしっかり起こされた。自治会の仕事が始まる時刻をちゃんと告げてあったからだ。
 朝食もそこそこに集会所へ向かい、仕事が始まる前に、前年度の役員から資料を引き継いだ。そして、用意しておいたUSBメモリに、集会所のパソコンに入っている65MBの前年度のファイルをコピーしようとした。
 ところが、集会所のパソコンのOSがWindows98のため、ドライバーがプレインストールされていなかった。そこで、ネット接続し、ヤフーでUSBメモリのメーカーのホームページにアクセスし、そこからWindows98用のドライバーをダウンロードした。ドライバーをインストールしたことで、無事、ファイルのコピーができた。
 今日は朝から頚椎が痛くて、久しぶりに鎮痛剤を飲んだ。やはり運動不足だろうと、夕方、1ヶ月半ぶりのトレーニングに出かけた。ジャズシンガーの天宅しのぶさんも気にかけてくれている体脂肪率を記録するのも重要だ。
 日が長くなっているし、空は晴れ渡っている。気分が良くなってきた。
 いつものトレーナーでなく、かつてよく通ってきていた女性のトレーナーがいた。私も古顔だなあ。
 アップするのを忘れて、真っ先にストレッチをしてしまった。それからラボードへ向かったら、「ベルトが磨耗しているので、ウォーキング程度にしてください」と貼り紙がしてあった、2台とも。時速6kmで3分間歩いて、嫌になったので、ステアマスターへ移ったら、「故障中」という貼り紙がしてあった。(くそ)次に、エアロバイクを物色しかけたら、端っこのやつが、これまた「故障中」である。肉体のメンテを促すトレーニングルームの器具類が、メンテ不足のために壊れまくっている、とは!
 それでも、トレーニング後の数値は、血圧「異常なし」、肥満度−1.4%で、体脂肪率は20%だった。うーん。もっと通わなければ。
 私がトレーニングに出かけている間に、ワイフは町内会の夜桜見物に出かけた。研いだ米を炊飯器に入れるのを忘れたまま(歌人の佐藤真由美さんの本を読んでいるうちに、文章構造が韻文化してきたらしい)。

4月11日(日)春うらら通り過ぎ、Tシャツ一枚・・・の風さん」
 昨日に続いて初夏のような陽気である。年寄にはありがたい。
 トレーニングのせいで、太ももの筋肉が少し痛い。
 県立図書館へ行き、本の返却と継続手続きをしてきた。最後の1冊は必要な部分をスキャナーで取り込んでしまえばお役御免である。あと、国会図書館にある1冊。あれだけは借用もコピーも不可なので、半日かけて書き写すつもりだ。もちろんアシュレイを使って。今月中にチャンスはあるだろうか。どうも来月になりそうである。
 帰宅してから、あまりの暖かさに半袖Tシャツ一枚になり、京大附属図書館の館報「静脩」用の原稿を書き上げ、メールで送信した。規定の分量をオーバーしているので、若干の手直しを求められるかもしれない。
 何はともあれ、原稿が一段落したので、夕食時にワイフとビールを飲んだ。お、そう言えば、ワイフは、昨夜はいったい何時に帰宅したのだろうか? 少なくとも私が就寝した時点で、帰宅の気配は全くなかった。「さあさあ、どうぞ一杯」何度も注ぎ足されているうちに質問するのを忘れた。これも陽気のせいか。否、ボケのせいだろう。

4月12日(月)「ウィルスを18匹捕獲しても気は晴れない・・・の風さん」
 ケータイでチェックしていたので事前に分かってはいたのだが、帰宅してメールチェックするとウィルスメールがてんこもりで、検疫場所に保管したウィルスだけで18匹! 今夜捕獲したやつは、W32 Netsky Q だった。ターミネーター3で、最終的に地球を支配するようになったコンピューターシステムはスカイネットという代物だったから、こいつを作った奴も、映画を観たのかもしれない。
 それにしても連日初夏のような陽気である。
 ま、ウィルスなんかよりも、バカ陽気なんかよりも、いま、最も気にかけていて良い結果が出るように祈るべきは、イラクの人質3人の無事救出である。

4月14日(水)「新鷹会前夜の風さんの巻」
 明日は新鷹会なので早く退社したかったが、そうは問屋が卸さなかった。
 帰宅は遅くなったが、予定通りにガソリンスタンドに寄って、先ず給油した。日本で一番ガソリンの平均価格が安いのが愛知県で、その中でも比較的安いガソリンスタンドを利用しているのだが、最近じわじわと高騰している。かつて90円を切っていたレギュラーが今や100円に肉薄している。プリペイドカード利用で、98円で満タンにした。続いて、知多半島を横断して、名鉄の某駅へ。自宅の最寄の駅は無人駅なので、明朝の特急指定席券を買うためにわざわざ向かったのだ。近くのコンビニの駐車場にミッシェルを停めて、駅の窓口へ行くと、指定席は満席状態で、その駅で確保してある指定席券(つまりその駅発ね)をキャンセルして、新たに私の最寄り駅からの指定席券を作ってもらった。ミッシェルを停めさせてもらったコンビニに寄って、心ばかりの買い物をした。
 帰宅してからは、明日持って行く物をカバンに詰めるのが精一杯。でも、先日の出張のときの苦い経験があるので、明朝の出発時刻をワイフに告げることだけは怠らなかった。

4月15日(木)「第566回新鷹会の記・・・の風さん」
 今朝の特急車内では持参の本が読めた。とりあえず順調なスタート。
 名古屋駅でインターネット予約した往復の新幹線の切符を入手し、コンビニでパック入りコーヒーを買ってから改札口を通った。行きののぞみ車内でもひたすら読書できた。
 東京駅で降りて、JRで有楽町へ向かい、そこから地下鉄有楽町線で永田町へ移動。二番出口から地上へ上がると、そこが最も国会図書館に近い。いつも警察官が立哨しているが、今日は、通常の2倍以上の数だ。いま、日本で一番危険な地域は鳥インフルエンザやBSE、SARSなどで汚染している地域ではなく、ここ、国会議事堂周辺である。
 登録利用者カードを持っているので、比較的短時間で国会図書館に入れた。10時半である。すぐに予定していた本の貸し出し請求をした。それが出てきたのが11時である。パソコンが使用できる部屋で、さっそくデータ入力を開始した。この本は古くて、「複写禁止」なのである(愛知県内の図書館には存在しない)。きっちり2時間作業したが、3分の1程度しかできなかった。館内で簡単に昼食を摂ってから図書館を後にした。
 国会議事堂前を通って、地下鉄千代田線国会議事堂前駅に向かった。道路の反対側に様々な労働組合が座り込みをしている。何を訴えているのかよく分からなかった。子供の頃に見たメーデーをふと連想した。
 代々木公園駅で下車し、徒歩で代々木八幡駅へ。2時前に着いた。早い。
 今日の勉強会は近年にない充実ぶりだった。講堂に集まった会員は20人を超え、椅子が足りなくなるほどだったし、作品も5本集まった。
 特筆すべきことは、お誘いした辻真先先生が約束通りに見えられたことである。勉強会の開始前にまた新刊本を2冊頂戴し恐縮した。鉄道ミステリー名作館『葬送列車』(徳間文庫 629円税別)と『仮題・中学殺人事件』(創元推理文庫540円税別)である。アンソロジー『葬送列車』の中には、数学者で何度も教えをいただいている天城一先生の作品も収められていたのでびっくりした。私と伊東昌輝先生とで、辻真先先生を最近来るようになった会員へ紹介した。
 読み上げられた作品に対する辻真先先生の指摘の、あまりの的確さに舌を巻いた。ひとつだけすべてに通じるアドバイスを書いておく。「作家は、書きながら、同時に、読者であり評論家でなければならない。その三位一体の作業の結果が作品になる」うーん、と唸ってしまった。
 また、俳優で劇作家、演出もこなす梅澤龍峰氏が戯曲「夢の中」を朗読・熱演された。プロの手並みに圧倒されてしまった。
 2次会会場までの道すがら、新鷹会理事4人で、ある打ち合わせをした。
 久しぶりに2次会で美味いビールを飲んだ。
 帰りののぞみの車内でも読書をしたが、さすがに疲れも出て少し寝てしまった。しかし、ふと目が覚めると、電光掲示板に、イラクの人質3人が解放され、その無事が確認されたというニュースが出た。こういうとき、一斉に拍手とかが起きれば、日本もまだまだ捨てたもんじゃない気がするのだが・・・。とにかく良かった。こういう難しい事件は、あらゆる事態が想定されるだけに、結果がとても大事だ。セイブ・イラクチラクドレン・名古屋の代表(秋田高校の同級生である)小野万里子さんも喜んでいることだろう。

4月16日(金)「日本はホント平和・・・の風さん」
 出社し、11時まで会議に出て、それから名古屋へミッシェルで出張した。会議の成り行きから、どうしてもまた会社に戻る必要があったからだ。
 名古屋城近くのビルで6時半まで仕事をし、その後の懇親会を辞退して、ミッシェルで名古屋高速、知多半島道路を走って会社へ戻った。
 10時半まで仕事して、ようやく退社した。ケータイでワイフへ電話した。「今から帰るけど、晩御飯あるかな?」今夜は出張先で食事が出るという情報を伝えてあったので、確認の電話をしたのだ。「なーんにもないわよ。食べてくるって言ってたじゃない!?」「やっぱりそうか・・・。じゃ、コンビニで何か買って帰るよ」
 残業で遅くなっても、優しい家族の迎えはないのが、サラリーマン家庭の常識だ。それだけ日本は平和なのである。会社はある意味で戦場だが、企業戦士はそこで死ぬことはまれである(うつ病で自殺したりするけど)。

4月18日(日)「寝ると元気な風さんの巻」
 実は死ぬほど忙しい(でも、毎回、そんなことをここに書いている気がするな)。
 昨日は疲労でへろへろ状態だった。・・・にもかかわらず、午後11時半から借りてきたDVDをワイフと一緒に観た。クリント・イーストウッドの監督・主演の「スペース・カウボーイ」である。1958年ごろ、宇宙への夢を抱いて訓練をしていたクリント・イーストウッドら若者たちが、その夢をチンパンジーに奪われたというのが長年のトラウマになっていた。ところが、21世紀になって、彼らが開発した機器を積んだ宇宙ステーションが故障し、やがて地球に落下してしまうという困った状況になったために、それを唯一いじれる彼ら(たいてい70歳前後に達している)が再び宇宙へ飛ぶという物語だ。アメリカ映画らしい巧妙な設定で、大いに参考になったが、ぼくならもっともっとクライマックスをシリアスな心理劇に仕立てるだろうなあ。
 日頃から無理に無理を重ねていた私は、必死に起きて観ていたが、同様に、無茶な生活をしているワイフは、横でうたた寝しながら観ていた(と言うことは、観ていなかったということか)。
 DVDを観た後、植松三十里さんの『桑港にて』(新人物往来社刊)の最後の20ページを読んだ。成長の後著しい作品だった。恐るべし。
 で、今朝は、昼過ぎまで寝ていることに・・・。
 今日は、会社の仕事をしなければいけないので、いじいじと書斎に籠もったが、夕方、気鬱晴らしにトレーニングに出かけた。トレーニングの血圧測定は恐るべき低さで、100−63だった。昼過ぎに薬を飲んだから当然かもしれない。体脂肪率が18.3%で、肥満度は−1.9%だった。
 なーんだ、健康じゃないか! これなら、まだいくらでも無理できそうだ。

4月19日(月)「ウィルスメールが36通・・・の風さん」
 朝起きたら、筋肉痛である。気持ちいい〜(わしゃ、マゾか)。
 ホントに目が回るくらい疲れて帰宅し、メールチェックしたら、な、なんと36通のウィルスメールが届いた!
 すべて W32.Netsky.Q である。ノートンがすべてをブロックしてくれたが、うっとうしいったらない。
 そこでパソコンに超詳しいすがやみつるさんに相談してみた。
 すると、色々なことを教えてくださった。
 先ず、ウィルスメールを送ってくる送信者は、必ずしもメールに表示された送信者ではない、ということ。ウィルスは、侵入したパソコンの中のキャッシュから、無作為に見出したメールアドレス二つを使って、送信者と宛先に仕立てているのだそうだ。ウィルスにアタックされたパソコンの所有者が、たまたま私のホームページを読んでいたりすると、かつて埋め込んであった私のメールアドレスがキャッシュに残り、それがウィルスに利用されてしまうのだ。
 世界中のホームページや掲示板からメールアドレスを収集する「ロボットプログラム」というのもあるという。
 次に、予防方法である。私の場合、ホームページからメールアドレスを削除するのが一番らしい。あるいは、そのままでは使えないメールアドレス(一部や全部を全角文字にするとか)にして、利用する人がマニュアルで修正してから使うようにしてもらう(これを採用しようと思う)。他に、プロバイダーにウィルス駆除を有料でしてもらうのもいいそうだ。でも、それでは、ウィルスメールの発生対策にはならないな。
 最後に、本当のウィルスメール送信者(パソコンですね)が、どこのプロバイダーと契約しているか特定する方法も教えてもらった。メールのタイトルを右クリックして、プロパティの詳細を開き、ついでに見やすくするために、メッセージのソースを選択すると、Received from: で始まる項目の中にそれが含まれているという。
 今日は、怒り狂って36通のウィルスメールを、検疫後にすべて削除してしまったので、明日、それらがどこからやってくるのか調べてみるつもりだ。

4月20日(火)「恐るべきコンピューターウィルス・・・の風さん」
 せっかく教えてもらったウィルスメール送信者契約プロバイダー特定法だが、試している余裕がなかった。
 しかし、今日は、会社の同僚のパソコンに巣食っている、恐ろしいウィルスについて話を聞いた。
 そのウィルスについたは、会社のネットワーク管理者から、同僚に対して、ウィルスを駆除するようにとの指示メールが届いたことで、ひと騒ぎがあった。同僚いわく、他人から指摘されるまでもなく、そのウィルスについては気付いていたそうだ。ところが、インストールしているウィルス駆除ソフトでは(最新版に更新しても)駆除ができなかったのだと言う。それで、パソコン内を探して、そのexeファイルを発見し、ゴミ箱へ入れようとすると、すぐにコピーができてしまう。移動させようとすると、別の場所へ雲隠れしてしまう。ウィルス駆除ソフトでパソコンのウィルススキャンを実行したら、その駆除ソフトそのものが固まってしまい、使い物にならなくなってしまったと言うから怖い。何か良い駆除ソフトがネット上に公開されていないか、問題のexeファイルの名前で検索してみると、1件もヒットしないと言う。この聞いたこともないウィルスはもしかすると、コンピュータウィルスではなく、本当のウィルスなのではないかと、鳥肌が立った。しかし、アイデアマンの私としては、何とか面白い対策はないものかと思案した挙句、次のようなみょうちくりんなアイデアを提案した。「マックのコンピューターに入れて、ゴミ箱に入れてみたら?」だめだめ。どこへ移動させようとしても、本体のどこかに必ず残るのだから。

4月21日(水)「猛烈サラリーマンに逆戻り・・・の風さん」
 ・・・といった他愛もない会社生活を送っていると思ったら大間違いですぞ。
 ゴールデンウィーク明けの大会議のための資料作りで、今夜の帰宅は午前1時を過ぎていた。
 それでも執念で寝る前にパソコンに向かった。届いていた3通のウィルスメールの本当の発信者の契約プロバイダーを調べてみたら、1通は、私と同じプロバイダーだった。

4月22日(木)「真夏日もまた楽し?・・・の風さん」
 6時に目が覚めた。できれば4時頃に起きたかった。しかし、睡眠時間は4時間ほどである。やはり眠いな。
 ミッシェルには悪いが体調不良のままハンドルを握り、早朝の有料道路を突っ走った。8時前に本社に着いた。
 昨夜の資料をアシュレイを使って直した。最初の会議をさぼってひたすら修正した。そのままアシュレイを持って重役席前へ。小説家として講演する時に使っているアダプターでディスプレイに表示させた。すべて私物だが時間がない時は仕方ない。
 重役への説明は、私の進退がかかっているという覚悟だったので、この瞬間までけっこう力を入れたのだった。
 説明は何とかうまく行った。ここまで考えてきたストーリーがほぼ了解されたのである。
 その後、強い日差しの下、製作所へ戻って、昼食後、会議をひとつこなして、朝の資料を少し修正し、再び午後、本社へ出張した。今度は、専務への説明である。これもまずまず成功した。
 夜は、職場の歓送迎会だった。送られる人物が酔った勢いでヌードになるというハプニングもあったが、なかなか楽しい飲み会だった。あ、いちおう、送られる人物は男性です。それと、私が飲んだのはノンアルコールビールでした。
 今日は、フェーン現象で、日中の最高気温が30度を超えた。史上最速の真夏日到来だった。その暑さに気付かないほど多忙な1日だったが、疲れは十分に感じていた。
 飲み会後、ミッシェルの待つ駐車場に着くと、日中の暑気がまだ残っているのを感じた私は、突然決意して、ミッシェルの幌をたたんだ。オープンカーにしたのである。
 自宅までの35kmを風を切って走った。街の匂い、橋を渡る時のどぶ川の匂い、海沿いを走る時の潮の香り、次々と味わう外気の変化に、新鮮な驚きをおぼえた。

4月23日(金)「忙中やはり忙・・・の風さん」
 一夜明けたら、外はどんよりとしていた。平年並みの気温に逆戻りである。通勤路を走りながら、ミッシェルのヒーターのスイッチを入れた。
 忙しいということは楽である。迷っているヒマもなく、次々に仕事がやってくる。それらを猛烈な速度でこなしているうちに、昼食も終わり(昼休みなんて食事している時間以外はほとんどないに等しい)、朝のうちに予定していなかったことばかりが発生しても、やはりそれらに対応し、あっという間に夕方となった。今日こそは現場へ行くつもりだったのに、できなかった。
 久しぶりに早めに退社した。
 ガソリンスタンドでガス欠寸前のミッシェルに給油し、修理に出していたデジカメを電気屋で受け取り、日曜日の自治会総会で使用するビンゴカードを購入してから、ようやく帰宅した。
 夕食後、書斎でメールチェックすると、昨日に続いて、ウィルスメールが1通も来ていない。不思議だ。
 会社の同僚のパソコンに巣食っていたウィルスは、今日、駆除された。どうやって駆除できたかと言うと、ファイル名を変更したら、無害なファイルになり、削除できたと言う。パソコン内を検索し、所在を突き止めたことで、ようやく駆除できたわけだ。これは今後の参考になる。

4月24日(土)「咸臨丸子孫の会の巻」
 心配された天気はいちおうの青空を見せていたが、風はかなり強かった。
 なぜ天気を心配していたかと言うと、今日は清水市まで出かけるからである。ちょっとした旅行である。「相当に気温が低くて寒いわよ」というワイフの助言に忠実に従って、トレーナーの上にブルゾンを着込んだ。
 何もなくても早起きしてくれたワイフに、イプサムで駅まで送ってもらった。高架を走っている駅の下まで来ると、これから乗ろうとしている電車がホームに入ってくるところだった。「あれれ? もう電車が来たぞ。そうか、特急とすれ違うために待ちあわせになるんだ」とタカをくくった私をあざ笑うように、ホームへの階段をのぼりきると、電車は私にバイバイして出て行ってしまった! 無人駅を馬鹿にしてはいけない。
 急いで、時刻表をチェックすると、休日の時刻表は54分発で、私の予定していた時刻58分発は、平日の時刻表だったのである! ボケボケ・・・。
 8分後にやってきた普通電車に飛び乗って、途中駅で特急に乗り換えることにより、名古屋へは予定よりたった2分遅れで着くことができた。
 ひかりで静岡まで行き、乗換えまで1時間あったので、予定通りに駿府城二の丸の見学に向かった。徒歩10分との予備情報だったが、実際は地下道も2回利用し、おまけに工事中で迂回しながらだったので、往復で30分は費やした。残りの時間で、県庁などの建物が並ぶ駿府公園内の東御門と巽櫓を見学してきた。ボランティアの人がいて(見学者は私一人だけ)、時間のない私にもかいつまんで説明してくれた。何から何まで復元した物ばかりという中で、鯱(しゃちほこ)だけは堀から出てきた青銅製の本物だそうだ。
 私は以前拙作『算聖伝』の中で、この駿府城のある地点から富士山が見えると書き、見えないのではないかという指摘を受けた記憶があった。ボランティアの人の話では、駿府城の背景に富士山を描いた絵もあるし、実際、天気の好い日は今でも見えるので、見えますよ、とのことだった。そうは言われても、自分の目で見るまでは信用しないほうがいいだろう。今後の課題として残しておく。
 静岡駅まで息を切らして走って、何とか予定していたJR普通列車に間に合った。草薙駅で降りて、静岡鉄道に乗り換え、終点の新清水で降りた駅の斜め向かいにあるホテルが集合場所だった。
 私の今回の旅行は、「咸臨丸子孫の会」の旅行会に特別参加することだった。
 今から150年も昔の咸臨丸による太平洋横断という壮挙に乗り組んだ人たちやその関係者の子孫の方たちが、あたかも同窓会のように探して連絡を取り合って、この会が誕生したのだ。昨年出版した『怒濤逆巻くも』を読んでくれた人も多く、植松三十里さんの紹介もあって、私の参加が認められた。
 今回の旅行が清水市に選定されたのは、咸臨丸の悲劇の舞台だったからである。
 榎本武揚率いる旧徳川幕府艦隊が品川を抜錨したのが、慶応4年(1868)8月19日のことだった。不調の蒸気機関を外していた咸臨丸は、蟠龍丸に曳航されていたが、台風のために破損・漂流し、清水港に入った。修理が目的だった。改元されて明治元年となったのは、9月8日である。
 事件は9月18日に起こった。幕府軍を追う官軍の艦隊、富士山丸、飛龍丸、武蔵丸が停泊中の咸臨丸に襲い掛かったのである。修理中の咸臨丸は、乗組員がほとんど上陸中だったし、無防備、無抵抗状態だった。それにもかかわらず、官軍は、わずか十数人の乗り組み員を虐殺し、その死体を海へ投げ込んだ。その中に、『怒濤逆巻くも』でも重要な脇役として描いた、春山弁蔵がいた。
 官軍に遠慮して、海に浮かぶ遺体に手を出さない人々の中で、清水の次郎長だけは、侠気(おとこぎ)を発揮して遺体を回収、向島の無縁墓に手厚く葬った。それが「壮士の墓」となって今も残る。
 ホテルの会場には、既に多くの子孫の方たちが集まっていた。私が座った円卓には、すぐ右隣に榎本武揚のひ孫にあたる方、向かい側には木村摂津守喜毅(よしたけ)の子孫の方2名がおられた。進行役の小杉雅之進の子孫の方の紹介で、春山弁蔵の子孫の方(驚いたことに私が小説の中で設定した風貌とよく似ておられた!)もおられたし、全く予想もしていなかった小野友五郎の子孫の方2名もいらっしゃった。他には、佐々倉桐太郎、濱口興右衛門、斉藤留蔵の子孫の方などがおられた。
 昼食後、静岡市埋蔵文化財センター館長黒澤氏の講演を聴き、それからバスで移動し、オーシャンプリンセス号で清水港内を遊覧し、梅陰寺で清水の次郎長の墓(墓石の文字を揮毫したのは榎本武揚)を見学し、その次郎長の生家、中島三郎助の妻女が世話になっていた妙慶寺(この寺のことは、『怒濤逆巻くも』にも引用されている)、次郎長の船宿「末広」、そして最後に「壮士の墓」をお参りして、その日の見学は終了した。
 歴史小説を書くこと自体は、歴史に埋もれた人たちの供養になると信じているが、こうしてあらためて足跡を訪ねて歩くと、そういった気持ちはまた強くなる。私は、「壮士の墓」で春山弁蔵に手を合わせた。
 夜は近くの料亭で懇親会となり(総勢22人)、子孫の方たちとさらに親しく話ができた。
 子孫の方たちは言う。「祖父や祖母の時代は、それこそ生きることに精一杯で、曽祖父らの事跡を親兄弟へ伝えることが思うようにできなかった。しかし、平和で幸福な現代、あらためて曽祖父らの必死に時代を生きた証拠を、多くの仲間や歴史家、小説家の人たちから教えられて、彼らのDNAが間違いなく、自分たちの体の中に受け継がれていることを感じて幸せである」
 私はそう言う子孫の方たちと触れ合うことで、同じ感慨を共有でき、連綿と続く人間の歴史に感動しないわけにはいかなかった。
 懇親会は8時過ぎに終了し、再びJR、新幹線、名鉄と乗り継いで、11時過ぎに帰宅したが、充実した旅行だった。

4月25日(日)「小説家の翌日は町の住人・・・の風さん」
 今日は、住んでいる地区の自治会の総会があるので、11時から集会所へ出動した(大げさな・・・笑)。
 会場作りを手伝い、いったん帰宅して昼食後、再び出動。総会は1時半から始まった。
 昨年度の活動報告から今年度の活動計画まで、会長の説明と質疑が続いた。予想以上に時間がかかった。
 会社のように売り上げを伸ばすことが目的なら、収入も増やしていけるのだろうが、自治会活動は予算はだいたい限られている。それでも、年々、活発に活動しようとすると、どうしても経費がかさむものである。1年たって、その収支を見てみると、活動が活発だったことに比例して支出が増えていた。典型的なのがコピー機の維持費で、全予算の8%にものぼる。これはかなり性能の良いコピー機をリースで使用しているためにかさんでいるのだ。従量制が重くのしかかっている。紙は1枚1円弱でも、1枚コピーするごとに、6.5円もリース会社に支払っているからだ。住民の痛烈な指摘が出るのも止むを得ない。この支出を圧縮する一番良い方法は、リースを解約し、ヘボなコピー機を1台買えばよいのだ。しかし、高性能で便利なコピー機に慣れた住民が我慢して使用できるだろうか。
 これは日本の社会が抱える本質的な問題の縮図でもある。
 飽食の時代と言われて久しい。資源に乏しいくせに、アメリカのような豊かな(実際は使い捨て平気な)生活を求めた結果が現状なのである。貧乏に耐える生活に戻る覚悟があるか?!
 このへんにメスを入れて、今年度の自治会を運営していかなければ、1年後の会計報告で悲惨な目にあうのは火を見るより明らかだ。私たち自治会役員の責任は重い。

4月26日(月)「しまった!・・・の風さん」
 小説を出してから「しまった!」と思うことが何度もある。多くの場合、私の無知や調査不足からしでかした間違いである。今回もそれに類したお話。
 ウィルス対策で、ホームページに載せたアドレスは、いつでも解約できるフリーメールで、しかも暗号化した。暗号化と言っても、高度なものではない。すがやみつるさんのアドバイスに従って、全文字を全角化した。これならハッカーが使用するロボットプログラムで収集されることはない。ただし、貴重な読者の方には、半角に戻す手間をおかけすることになる。申し訳ない。
 その手間をかけてくださった読者からのメールが飛び込んだ。
 古郡(ふるごおり)さんという方で、拙著『算聖伝』の中に出てくる古郡彦左衛門(別名は池田昌意)がきっかけで、私の作品を手にとってくださったとのこと。私は、古郡の読み方をしっかり調査しなかったために、(こごおり)とルビを振ったのだが、どうやら(ふるごおり)というのが、正しい読み方らしいのだ。私の所有する資料には明確な読み仮名の記載がないのだが、古郡解とか古郡氏解とかいう算学者もいて、姓は(ふるごおり)と読むらしい。もしかするとすべて同一人物かもしれないが、そんなことより読み仮名を間違った可能性はきわめて高い。申し訳ないことをした。文庫にするときは是非修正したい。
 それから、古郡さんは、群馬県のご出身ということで、『算聖伝』の関孝和を江戸生まれに設定したことにクレームをつけられるかと思ったが、そんなことはなく、さらに『和算忠臣蔵』から『怒濤逆巻くも』まで読書中とのことで、うれしい以上に恐縮してしまった。古郡さんにはホームページもあり、お互いにリンクをはりましょうとメールで相談もしている。

4月27日(火)「書いてよかった木村摂津守喜毅・・・の風さん」
 朝から強い雨が降っていた。早々と真夏日を経験したかと思ったら、今度は梅雨のような、いや台風下のような天候である。地球の最期は近いかもしれない。
 本社へ出張した帰りの同僚の車の中で、エリクソン(久々の登場。私のケータイのこと)がバイブレーションした。ディスプレイには発信者の番号だけが表示されている。つまり、エリクソンに登録されてはいないが、番号非通知設定ではない。怪しい電話ではなさそうだったので応答したら、先日、清水市で開催された「咸臨丸子孫の会」でお会いした木村摂津守喜毅の子孫の方からだった。
 「風さん。この間話していた別冊歴史読本、いつ発売になるの?」という質問だった。
 『別冊歴史読本』第84巻、サブタイトル「日本史を変えた大事件前夜、そのあと歴史が動いた」に、私は寄稿した。「太平洋横断出航前夜の咸臨丸」と題して、日米修好通商条約批准のための副使で、咸臨丸提督の木村摂津守喜毅の苦悩を描いた。木村の視点で書かれた文章は恐らく珍しい。まさに埋もれた貴重な史実だ。
 私は24日ごろ発売と記憶していたのだが、実際は、今日だった。昨夜、インターネットで発売日を確認し、今朝の朝刊の広告でも再確認していたので、今夜あたりお知らせしようかと思っていた矢先だった。しかし、ご子孫の方にしてみれば、ご先祖のことが書かれた商業誌は、大いに気になるところである。もし変なことが書かれていたら、すぐに刺客を送り込んで、作者を抹殺しなければ気がすまないであろう。私だったら、そうする。
 今日発売であることをお伝えし、ついでに長々と話したが、何となく昔からの知り合いのようになっている。私も咸臨丸の関係者として認めてもらえたのだろうか。
 深夜、その方からメールが入った。
 「咸臨丸に乗船した水夫(かこ)や火焚(かまたき)一人ひとりにまで気を配っていた曽祖父の姿が描かれていて感激しました」

4月29日(木)「昏々と眠り続けた風さんの巻」
 昏々と眠り続けた。それだけ年が明けてからの疲労の蓄積が大きかったのかもしれない。ようやく午後3時過ぎにベッドから這い出た。カーテンを開けると、西に傾いた日差しがうらめしく目に入る。ゴールデンウィーク初日は起床と同時に終わりかけていた。
 洗面を済ませて階下へ降りると、ワイフの逆襲に遭った。「パパリン。おはよう。こんにちは。こんばんは」
 たいして空腹でもなかったが、何か食べないと乗り遅れた1日が始まらない。トーストを焼いて食べた。
 新聞に目を通す。大事件も大事件らしく見えない。脳みそはまだ休眠状態らしい。
 書斎に入って窓を思いっきり開けた。静かだった。
 機械的にパソコンを立ち上げてメールチェックすると、わんさと来ている。不思議なのは、ウィルスメールが1通も来ていないことだ。返信メールを打ったり、気まぐれ日記を更新しているだけで、どんどん時間が過ぎていった。
 これでは、今日は何も成果がないまま終わってしまう。
 焦った私は、近所の図書館から借りたブロードバンド・ルーターの解説書を読み始めた。ケーブルテレビのネット契約をしているのだが、常時接続のくせに利用率が低過ぎる。おまけにセキュリティが弱いらしく、昨夏はウィルスに感染して痛い目を見た。ブロードバンド・ルーターを介して、セキュリティを強化し、加えて無線LANを導入し、書斎の執筆マシンでもネットサーフィンできるようにしてやろうと思っているのだ。
 解説書を読み終えたのが午前3時である。
 それからもまだメールのやりとりがあって、就寝したのは午前4時過ぎである。少しは取り戻せたか、私のゴールデンウィーク初日を?

4月30日(金)「暴飲暴食鮮(すく)なし仁?・・・の風さん」
 午前10時過ぎに起きたから、睡眠時間は6時間ほどだ。
 ブランチを食べて書斎へ。今日こそ何か成果を出さねば。
 メールチェックすると、今日もウィルスメールは来ていない。不思議だ。どこへ消えたのだろう。
 私用ばかりでどんどん時間が過ぎるので、勇気を出して、会社の仕事を始めた。連休明けに使う発表資料の作成である。けっこう中身が難しいので、ビラをきれいに作っても発表は手こずりそうだ。
 シコシコと作業を続けているうちに、早、夕方になってきた。
 やばい。これで1日が終わってしまう。
 急いで準備して、体育館へ出かけた。2週間ぶりである。最近、頚椎症が悪化していて、首・肩・腕・背中のどこかが常に痛い。筋肉が落ちて体のバランスが崩れていると、これに拍車がかかるのだ。
 いやあ〜、すっきりしたあ〜。
 運動後。血圧は正常値。1997年以来の低い体重を示して、肥満度−3.3%、体脂肪率は19.3%だった。連休中は体育館はオープンしているので、あと2回は通いたい。
 夜は家族で外食した。体重が落ちていたので、思い切り食べた・・・ら、腹の具合が変だ。

04年5月はここ

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